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真言宗は真言密教ともいわれるインド・中国・日本の三国伝来の大宗教であり、すべての仏教を包み込んだ広大なる教えと信仰を持っています。それだけに、一般の信者さんや多くの人々に、つかみきれない深さを持ち、「一体、何を説き、何を信仰心とするのか。」という疑問を持たれているのが現状ではないかと思われます。
真言宗の説くところのものは、目に見えるすべての事物も大切なものですが、それにもまして尊いものは仏さまの命と心であり、私達一人ひとりの人間も、それと同じものを持っていると言う自覚であります。それを真言宗の根本経典である大日経(だいにちきょう)の始めに「実のごとく自心を知るなり」と説かれており、いのちと心を現在と未来に生かすことを「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」といい、「生かせ いのち」を提唱しているのです。
しかし、これらの教えは単に理論や知識であってはならないのであり、実際の日常生活において身を持って、供養と礼拝の修行を行う所に真実の宗教信仰の意義を見出さねばならないのであります。真言宗でいう教相(きょうそう)と事相(じそう)、言いかえれば学と行が一つになってこそ、日々の覚りが実際に開かれ、弘法大師(こうぼうだいし)さまが願われた現世の浄土が家庭と社会に実現するのであります。
真言宗は仏教の一つの宗派ですから、仏・法・僧つまり仏陀である釈尊(お釈迦さま)《仏》と、釈尊の説いた教え《法》と、その教えを守る僧侶の社会としての仏教教団《僧》と言う三宝(さんぽう)に帰依することを説くのは、他の宗派と同じです。
しかし厳密にいうと、真言宗の場合の仏とは大日如来(だいにちにょらい)です。
したがって、法とはその大日如来(だいにちにょらい)の説いた教えであり、僧とはその教えを広めようとしている人々であると言うことになります。この三宝について身と心を捧げて礼拝するのが真言宗信仰のみなもとなのです。
普通、仏教ではどのような解釈があるにせよ、仏の説いた教えを宗旨としています。また、釈尊は教えを説く相手の能力に応じて、方便を持って説いたといわれますが、
大日如来は方便を用いないで、真実の言葉で悟りの境地をそのまま説いたのです。この点を強調するのが真言宗の特色です。
真言宗の教えは大日如来によって説かれ、宗祖・弘法大師がそれを体験して広めたもので、これが体系化されて現在のようになったのです。
その教えの中心となるものが、即身成仏(そくしんじょうぶつ)です。これは今までの宗派が、人間が悟りへの心《菩提心》をおこして修行しても、三劫(さんごう)という数えられないほど長い時間をかけなければ成仏できないと、考えていたのに対し、今現在生きているこのみのままに成仏できると言うものです。それは、大日如来を自分自身の中に確認し、それと一体となることです。つまり、仏と自分とが一体になった状態こそが即身成仏ということで、そのような生活ができるように、真言行者は身と口と心の修行である三密行(さんみつぎょう)を実践し、日常的には十善戒(じゅうぜんかい)という正しい生活の基本を実践するのです。
真言宗は大日如来(だいにちにょらい)を教主として仰ぎますので、大日如来を本尊としているお寺は少なくありません。しかし、釈迦・阿弥陀・薬師などの諸如来、観音・文殊・地蔵・弥勒などの諸菩薩、不動・愛染などの諸明王、帝釈天・毘沙門天などのいろいろな仏さまもまつわれていて、決まったものではありません。それは大日如来の性格によるのです。
真言宗の本尊である大日如来とは、宇宙の真理を意味する仏、つまり法身仏(ほっしんぶつ)です。しかし、私達が直接対象とする世界は現象の世界、つまり、曼荼羅(まんだら)の世界です。大日如来はこの曼荼羅の世界で、それぞれの衆生《生きとし生きるものすべて》に応じて、教化しやすい仏の姿をとっているのです。いわば、法身大日如来はすべての仏・菩薩の本体なのですから、それぞれの人が自分の因縁によって結ばれた本尊を通して、総本尊の大日如来に結ばれているのです。
大日とは、古代インドの言葉・サンスクリット《梵語》の「マハー・ヴァイローチャナ」を意訳したもので、これを音訳すると「魔訶毘盧遮那(まかびるしゃな)」となります。マハー《魔訶》とは《大》、ヴァイローチャナ《毘盧遮那》とは《遍く照らすもの》、つまり光明(こうみょう)という意味です。この光明のように、大日如来は世の中の闇を除き、影と日向とがなく消滅したり変化したりすることもなく、遍く世界を照らし、すべての生き物に熱を与えて生成発育させ、あらゆる働きを完成させる尊い徳を備えているのです。
密教では悟りの世界を図示してわかりやすくした、胎蔵界(たいぞうかい)と金剛界(こんごうかい)という二種類の曼荼羅があります。
胎蔵界では、大日如来は中央に、釈尊は釈迦院の教主として東に位置し、金剛界でも大日は諸仏の中央に、釈尊は北方の一門の仏として表されます。そうすると、歴史的に実在した人間釈尊と、宇宙を仏格化した法身大日如来との関係が問題になります。
このことについて、真言宗では大日如来と釈尊は別体でありながら、真理そのものである法身大日如来の法をうけて釈尊が現実世界の悟りをといたと考えるのです。つまり、釈尊は大日如来が現世へ現れた姿なのですから、釈尊の教えの中には大日如来の法身としての姿が厳然として存在しているのです。
弘法大師は『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』の中で宇宙の実体を観察して、それを、体大(たいだい)《本体・本質》と、相大(そうだい)《現象》と、用大(ようだい)《作用・活動》の三方面から分析しています。
その最初の体大については「六大はさえぎるものがなく、永遠に結びついて、とけあっている」といっています。六大とは、宇宙の真理・本質を象徴する、地・水・火・風・空・識の六つをいうのです。
これらは、いずれも宇宙に大きく広がっているので、大いなる原質《大種》と呼ばれ宇宙の究極に実在するものを意味しています。さらにいえば、これらは単なる構成要素ではなく、如来の象徴なのです。
このように見通す時、宇宙が単なる物質で成り立つものではなく、全体が調和の取れた、生き生きとした生命体として、理解することができるようになるのです。これはいわば密教の世界観です。
次に、宇宙の働きの面からの分析が、三密(さんみつ)の教えです。弘法大師は「仏と我等の三密が応じあう時、速やかに悟りの世界が現れる」と、説いています。
宇宙の真理そのものである大日如来の身体と言語と心の働きはたいへん微妙で、神秘的なので、身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ)といいます。この三密に対し、衆生の身・口・意の働きは三業といわれます。しかし、仏の三密も衆生の三つの働きも本質においては一体なのですから、いずれも三密に変わりなく、相互に応じあっているものなのです。
そこで、真言行者が手に印を結び、口に真言を唱え、心が三摩地(さんまじ)に住するならば、仏の三密と行者の三業が相応して、即身成仏することができる、といわれるのです。したがって、この三密の教えは大日如来と言った一体となるための実践論ともいえるのです。
高野山真言宗仏教習俗研究会
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