|
愛する家族との死別は、心を激しく揺るがします。
この世は諸行無常と言いますが、突然の死、理不尽な死、納得できない死は、狂おしいほどの心の嘆きをもたらします。平穏な死であって、心の準備が出来ていたとしても、いざ居なくなってみると深い寂しさがこみ上げてくるものです。家族の死によって深い心の痛みを体験した者は少しでもこの心の嘆きを埋めようともがきます。この「もがき」こそがお葬式の実質であり、お葬式を表現している事は事実です。
子供を亡くした親は「なぜ代わって死んでやれなかったのか」と無理を言って嘆き、「もっと好きな事させるべきだった。」と後悔し、一生涯、心に大きな穴が空くものです。そのせいか子供を亡くした夫婦の離婚率は最も高い事が証明されています。子供を亡くした事によって夫婦の会話が途絶え、心が離れていくのでしょう。それほど心や身体の平静さを奪っていくものなのです。
最近、葬式無用論が唱えられたり、宗教色のない友人葬などが行われたり、お葬式がただの儀礼としてしか考えられなくなってきています。それは結婚は神式、葬儀は仏式と単純に考え、普段は不信仰なのに、そういう時だけお寺や僧侶を必要とする考え方から、そういう風潮がでてきているのでしょう。
ただ人の死に際して、生きている人がお弔いをするのは宗教行為である事だけは、認識していただきたいのです。
無宗教の告別式の場合、ただ献花してその人の死を悼むというのは告別という意義しかなく、生きている側、あるいは人間中心の考え方でなされているのではないでしょうか。
本当に弔いをするということはどういうことか、ただの儀礼としてではなく考えるべきだと思います。
葬儀は、まず生きている人にとっては、人の死に接して、あらためて死とは何かを考えてみることです。いずれは自分にもその最期がくる、その死というものから目をそらさないことです。
また葬儀は亡くなった人の安楽な往生を願うことです。往生というのは死とはちがいます。往き生まれるということです。死んでなお往き生まれる、あるいは本来の生へ往くこと、それは輪廻転生というのとも違います。時間も空間も超えたところ、そこが私たちの本来のところ、本と来たるところなのですが、そこへ往き生まれることです。
死とはそういう意味で絶対的なものではありません。それがわかるということが宗教を信ずるということです。
お釈迦さまは沙羅双樹の下に涅槃(死に至る事)に入られる前、弟子たちが嘆き悲しむのを見てこういわれました。
「汝等比丘、非脳を懐くことなかれ。もし我れ世に住するとも一劫するとも、会うものはまた、まさに滅すべし。会うてしかも離れざること終に得べからず。・・・・世相かくのごとし。まさに勤めて精進して早く解脱を求め、智恵の明をもって、もろもろの痴暗を滅すべし」(仏遺教経)
人間の生死は仮の姿でしかないことを、身をもって説き示された言葉です。好みは仮のすがたとして滅するけれども、決して滅しない身がある、これが如来の法身です。
仏教における葬送の意義は、諸行は無常であるとともに、すべての存在には不生不滅の命がそなわっていることを説き、この身のすべてを、その命に委せることが本当の安心であると説くところにあるのではないでしょうか。
また、その人が死に際してなお迷いを残さずに、安らかに往生できるよう、導師が引き導くことであり、これを引導といわれているのです。
|
|
Copyright(C)2008 水子供養の常光円満寺 『当サイトの内容の無断転載、使用を禁止いたします』
|