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再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 常光円満寺 住職のご挨拶 再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記


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住職 藤田晃秀
 プロフィール

【氏名】藤田 晃秀
 (ふじた こうしゅう)

【生年月日】1974年4月16日
【血液型】A型
【学歴】高野山大学卒業
【修行】高野山専修学院55期

【病歴】再生不良性貧血(重症)
【手術】骨髄移植

皆様、こんにちは。常光円満寺 住職 藤田晃秀でございます。
令和3年1月1日に住職の座に就任いたしました。

実は24歳の時に血液の病気を発症し、骨髄移植を経て命を授かることができました。そして、常光円満寺という仏縁をいただき、み仏の温もりや優しさにふれて、病気を発症する前と、発症後では考えが180度変わりました。

常光円満寺は、『1300年の歴史』と『足利将軍の菩提寺』という由緒ある寺院でございます。
たしかに歴史や由緒も大切ですが、それ以上に私の想いは、癒やしのお寺としてお参りくださる方がみ仏のお慈悲にふれて穏やかな表情でお帰りいただけるような、そんなお寺にしたくて、25歳で副住職に就任してから約20年間、ずっと心がけて参りました。
また、お寺にご縁がない方でも興味を持っていただければという願いから、仏教のすばらしさや、悲しみを乗り越える方法なども、数多く配信してまいりました。

お寺の伝統を守りつつ、新しいものを取り入れることは難しく、時には失敗することもありましたが、家族やスタッフに支えられながら一緒に乗り越えて成長してこれたと思っております。
おかげさまで、20年前に比べると、常光円満寺はとても美しく生まれかわりました。

昨今はお参りくださる方がとても多いですし、良きスタッフにも恵まれ、忙しい中でも充実した毎日を過ごさせていただいております。

私が住職に就任してからも、常光円満寺という素晴らしい寺院名に恥じることのないよう、今まで以上に檀家の皆様やお参りの皆様方に寄り添い、喜んでいただけるよう努めてまいります。

どうぞ、今後とも宜しくお願い申し上げます。
 合掌



藤田晃秀からのご挨拶です





再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 骨髄移植から学んだこと 再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記


 私は、以前、再生不良性貧血という病気にかかり、骨髄移植を受けて、新しい人生を歩ませていただいている一人でございます。このようなところで私の病気についてここで紹介することは、かなり迷ったのですが、自分の存在する意味を感じる大きなきっかけになったものですから、紹介させていただくことにしました。

 この闘病生活を通じて「いのち」の尊さ、大切さを学んだことはもちろんなのですが、それ以上にいままで感じなかったことを感じることが出来るようになったこと、普段の生活がとても穏やかな気持ちで過ごせるようになったことが、なによりもの贈り物でした。

 この闘病生活は、今まで元気だった私にとってあまりにつらくて残酷な日々の数々で、入院しているときは「どうして自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか…」などと、いつも自分だけが被害者のように感じていました。
 しかし、これは退院してからわかったのですが、本当に辛かったのは私なんかではなく、私を支えてくれる方々だったのかもしれません。

 この病気は、私にかけがえのない絆というものを教えてくれたと思います。自分のことを大切に思ってくれている人がいるのだということを実感することが出来ました。

 私は、幼いときからずっといじめられて育ってきたため、小中高とあまりいい思い出がありません。また、いずれは寺を継がなくてはならないという思いもあり、大学や修行も親に言われるままで、人生に幸せを感じることは、ほとんどありませんでした。そのためか、この病気を経験するまで、自分は『孤独な人間』だと感じたり、「自分は何のために生まれてきたんだろう」などと、生きる意味を考えたりすることが多かったです。

 ところが世の中に『孤独な人間』なんて決していないのですね。私はこの闘病生活を通じて私を心配してくださった多くの優しさと、私を支えてくださる多くの温もりをつよく感じることができました。そして、闘病生活を乗り越えることによって、自然と周りを見わたす目や心の持ちようがかわってきました。自分はとても恵まれた環境の中で生活させていただいていたことに気づいたのです。

 心の持ちようが変わると今まで決して許せなかったことも、大きな心で受け止めることができることもございます。今までの自分がちっぽけに感じることさえございます。

 「私はいま幸せではないんです」とか「最近、幸せが感じられないんです」などという方もおられますが、日々の生活で小さな幸せは実はそこらじゅうに溢れているものですよ。ところが、私たちはそれを幸せだとか、感動する心が育っていないから、その幸せが心まで響いてこないだけではないでしょうか。

 まずは、すべてに感謝の気持ちをもち、温もりのある心の目で周りを見渡すように努力してはいかがでしょう。
 通勤や通学に行き来をする道のかたわらや、遠くに仰ぐ海や山を眺めて、季節の移ろいを感じることもございます。青々と芽吹いた草花をみて大いなる「いのち」を感じることもございます。人とのふれあいの中でお互いの心のひだや、言葉を交し合う中で相手の何気ない心配りを感じることもございます。

 皆様方の周りには美しい自然があり、愛すべき人々がいて、すばらしい出来事に満たされていることに気づくでしょう。
 私たちにとって、あたりまえだったことが、大いなる感謝と喜びの世界に生かされていること気づくでしょう。
 これはとてもすばらしい感動ともいえるのではないでしょうか?

 これより、私の闘病生活について紹介させていただきます。内容は私事ばかりで申し訳ないのですが、最後まで読まれることで、与えられた大切な「いのち」について考え、自分の存在する意味を理解し、温もりある心の目を持って、他人と比べることのない幸せを少しでも感じてくださることを願っております。



再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 発病

 体の異変に気づいたのは平成10年の6月の終わりくらいです。当時、私は24歳で高野山で修行を終えて、山内のある寺院で働いていました。

 ある日、ふと気づくと、ぶつけてもいないのに太ももや背中に、どこかでぶつけたような大きな赤紫色のあざができるようになったのです。あざが治りかると、他の場所にまた新しいあざができており、日に日に増え続けるのです。ただ、まったく痛みもかゆみもなかったので、「変だな」とは思うことはありましたが、別に気にしていなかったのです。

 あざができるようになって、2ヶ月間くらいは経ってからでしょうか。少しずつ身体に異変がおこってきたのです。当初は、身体のだるさを感じるくらいだったのですが、日が経つごとに微熱が続くようになり、歯茎から出血するようになりました。仕事は休まずに行っていたのですが、立ちくらみと睡魔がよく襲うようになり、身体のだるさもあり、あまり仕事が手につかなくなってきたのです。

 そこで1日休みをいただいて、病院で診察していただくと、当初は単なる風邪だと診断されました。それを聞いて安心しまして、処方されたお薬を飲んで1日寝ていたのですが、一向に熱は下がらず、眠っても眠ってもずっと眠い状態が続くのです。その時は処方されたお薬のせいだとばかり思っていました。

 それからも仕事へは頑張って行き、帰ると眠るだけの生活が数日続いたのですが、一向に回復の兆しはなく、どんどん身体の具合は悪くなり、そのうち少し歩くだけで息切れがするようになってきたのです。仕事場では「顔色が悪いけど大丈夫?」とか「お休みもらったほうがいいんじゃない」と、みんな心配してくださり、お寺のご住職さまにお願いして、また3日間の休みをいただきました。

 休み初日、歯茎からの出血もありましたので歯医者さんへ参りまして、治療していただき、ついでに「親知らず」があったので、その日のうちに抜いていただきました。ところがこの親知らずを抜いたことが、結果的に病気をすすめることになってしまったのです。
 歯を抜いた穴からの出血が、なかなか止まらないのです。その日は疲れもあって早めに床についたのですが、次の日、朝起きると枕が血だらけになっていました。親知らずの歯茎の血は一向に止まらず、丸一晩、出血が続いていたのです。驚いて起きると、鼻の下につうっと、嫌な感触を覚えたので、触ってみるとそれは真っ赤な鼻血だったのです。

 当時、ワンルームでの一人暮らしだったので、誰もそのときは助けてくれる人はおらず、なさけない話ですが、自分ひとりでは、あまりの恐怖心で、病院へ行く勇気ももてませんでした。ただ、ひたすら病気の回復だけを願って、休みの間、眠り続けることしかできなかったのです。病状は悪化するばかりでした。

 身体はこの3日間で、自分でも明らかにわかるくらい急激に衰弱していきました。顔は血の気がなくなり、身体はだるく、とても息苦しく、自分がどうなってしまったのかまったくわからず、死への恐怖とあまりの不安でふるえがとまりませんでした。

 休みが明け、身体はだるく、もう何をする気力もなくなっていたのですが、無理をお願いして休暇をいただいていたため、もうこれ以上は迷惑をかけることができなくて、仕事へ行く決心をしました。
 普段は徒歩5分くらいの道のりですが、すぐに息切れして全身の力が抜けてしまうので、その日は通勤に約1時間くらいかかりました。そして寺務所へ入ると、前にもまして幽霊みたいな真っ青な私の顔を見て、みんな心配してくれて、すぐに病院へ連れて行かれたのです。

 病院では1度目のときは診察だけだったのですが、2度目は血液検査をしてくれました。
 約2時間くらいで検査の結果が届き、その結果を見て明らかに驚いているお医者さまの表情がありました。私の身体を流れる血液には、血液中の成分である赤血球・白血球・血小板がほとんどなく、生きていること事態が不思議なくらいだったそうです。

 その時に、この成分についての役割を教えていただきました。

1、 赤血球には酸素を身体中に運ぶ役割があり、この赤血球が減少すると、全身の組織の活動が低下し、疲れやすくなるそうです。
正常は〔14〜16〕ですが、私は〔4.4〕と特にひどかったので、少し身体を動かしただけで動悸や息切れをするようになったそうです。


2、 白血球は身体への免疫力、つまり細菌やウイルスの身体への進入を防ぐ役割があるそうです。
正常は〔4,000〜8,000〕だそうなのですが、私は〔800〕でした。 微熱が続いたのは、白血球の減少によるものであり、1,000を切ると免疫力がほとんどなくなってしまうそうなので、大きな感染がなくて本当に良かったと思います。

3、 血小板は出血した際に血液を固めて止める役割があるそうです。
正常は〔15万〜30万〕あるのですが、私は〔0.4万〕と正常の2〜3%しかありませんでした。そのために、青あざができたり、歯茎からの出血が止まらなかったのです。


 お医者さまは、「よく今までこんな状態で頑張ったね」といってくださいました。
今までは、苦しみの原因がわからないことにも恐怖を感じていたのですが、私の症状はすべて血液がないことから来ているものだということがわかり、この十数日間の恐怖から開放されて、救われた気分になったことを覚えています。

再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 入院

 平成10年8月12日、実家近くの吹田市民病院に入院することになりました。入院後、検査を受けて、病気は重症の再生不良性貧血だと診断されました。私は貧血と聞いたので「たいしたことがなくて良かった」などと思ったのですが、それは大きな間違いであるということをつくづく知らされる結果となりました。

 この再生不良性貧血とは、血液を作る組織である骨髄が何らかの原因で、十分な運動低下し、それに伴って、血液中の赤血球・白血球・血小板が常に少ない状態になってしまう病気だそうです。

 輸血だけが命綱なのですが、驚くことに血液にも寿命があるのです。私の場合は重症で、1、2日で血液が元の値に戻ってしまう為、ほとんど毎日、輸血をしなければならないのです。

 数日後、お医者さまから「この病気は数年前までは治す方法がなかったけれど、今は骨髄移植という大きな希望があるから大丈夫。決してあきらめないように。」と言われ、このとき初めてこの病気の重さを知ったのです。ただ、骨髄移植が確立しつつあった当時は、私は本当に恵まれていたのかもしれません。

 輸血にも限界があるようで、あまり輸血を繰り返すと、身体が受け付けなくなってしまうそうです。そのために「出きるだけ早くの骨髄移植が望ましいので、早急にドナー(骨髄提供者)探しをします。」ということもいわれました。

 最初はこの骨髄移植がどのようなものかわからなかったのですが、お医者さまから説明を受け、この骨髄移植がどれほど大変なものか理解しました。

 お医者さまの説明を大きく分けると以下です。

1、 移植するにはまずHLA(白血球の型)が一致するドナー(骨髄提供者)を見つけなくてはならないのですが、一致する確率は兄弟姉妹間で4人に1人、それ以外は血液の型によって数百人〜数万人分に1人しかいない。

2、 HLAが一致する方が見つかったとしても、ドナーの負担は大きく約1週間の入院が必要になるため、その方が必ずしもドナーになってくれる保障はない。

3、 移植を受けるには大量の抗ガン剤の投与や放射線の治療をしなければならず、身体に大きな負担を与えてしまうことになる。

4、 放射線治療をうけると子供を作る組織は完全に死んでしまう。

5、 無菌室内でも完全な無菌状態ではないため、小さな感染で、そのまま命を落としてしまう可能性もある。

6、 移植後も拒絶反応や薬の副作用と一生闘っていかなければならない。

7、 移植が無事に成功して生着した後でも、また再発する可能性もある。
などなど

 あまりに沢山のことをおっしゃられたので、最初はよく理解できませんでした。 ところが冷静なって考えると、もしこの移植が成功したとしても、やりがいのある仕事、幸せな結婚、子供のいる家庭という私の誰もが望む決して贅沢ではない夢も、もう叶わないのだということがわかってきたのです。
 この病気のことや、今後のことを考えれば考えるほど、どんどん後ろ向きになり、小さな夢も、ことごとくつぶすようになってしまいました。今までが健康で、何でも好きなようにしてきた私だったので、どうしても病気の事を受け止めることができず、このときは完全に生きる気力を失ってしまったことを覚えています。

 私には免疫力がないために個室に移されました。基本的に部屋の外に出る事は禁止され、トイレなどで部屋を出るときはマスク着用が義務付けられましたので、他の患者さんと知り合うことはく、孤独だけの毎日が続きました。そのため、どうしても自分の病気のことを考えることも多く、その度に深い悲しみが私を襲い、どうしようもなくいらいらしたり、涙が溢れたりするのです。この気持ちのあたりどころは毎日お見舞いに来る母親しかいませんでした。母親にあたってもどうしようもないことがわかっていながら、このやり場のない苦しみをぶつけてしまうのです。そうなってしまう自分も嫌で嫌で仕方ありませんでした。

 ただ吹田市民病院の先生方や看護師さんはみんなとても優しく、退屈していないかと本当によく覗いてくれたり、話し相手になっていただいたりしました。それだけが私にとって唯一の救いであり、自分を保つ支えでした。

 幸いにも私の弟のHLAが完全一致したので、最も望まれる形で移植する事が決定しました。移植に際しては無菌室と整った設備が必要です。しかし吹田市民病院には無菌室はなかったので骨髄移植は兵庫医科大学付属病院にて受けることになりました。

 お別れのときは、みんな総出で見送ってくださいました。本当に先生方や看護師さんは良くしてくださったので、別れは寂しかったのですが、みんな応援してくれていたので、できる限りの笑顔を作ってお別れをしました。平成10年10月6日のことでした。

再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 転院

 兵庫医科大学付属病院に移ると、そこには血液疾患の患者さんが大勢いました。

 以前の病院では重度の血液疾患の患者は私1人で、完全に孤立させられていたため、嫌なことばかり考えがちになっていましたが、この病院に転院して初めていやしを感じることができ、自分の病気を受け入れる気持ちになりました。
 それは、同じような病気で入院している方々の前向きな姿を見たことで、「ここでは独りではないんだ」「みんな頑張っているんだ」などということを感じることができたからです。みんなまるで毎日の入院生活を楽しんでいるかのように、とても前向きで、明るく・優しく・面白いのです。

 転院してきた私を、みんな温かく受け入れてくれて、入院中の苦い体験や治療、飲んでいる薬のこと、どの看護師さんが優しいかということまでも笑いながら教えてくれました。みんなのおかげで、気持ちは一転し、明るい入院生活をおくることができるようになったのです。

 ほとんどの方は薬の副作用で髪の毛がなかったり、顔が腫れ上がったり、肌の色が赤や茶色に変色したりしているのですが、そんなことを気にする人なんて一人もいないのです。そのことには感動をも覚えるくらいです。私も「いずれこうなるんだよ」という事を教えてもらいましたが、みんながいてくれるので、悲しみなどありませんでした。以前の病院なら、決してこんな気持ちにはならなかったと思います。

 ただ、悲しいことに、なかなかドナーが見つからない方も何人もいました。思えば、私の場合は運良く兄弟間で一致しましたが、ほとんどの方は骨髄バンクから探されるので、なかなかドナーになってくれなかったり、一致しなかったりということが多いのです。
 そんな方々でも、兄弟間で一致して骨髄移植をすることを伝えると、嫌な顔をひとつも見せず、心から喜んで応援してくださるのです。「1人でも救われることが、私たちにとって大きな希望になるんだよ」ということをおっしゃっていましたが、内心はどれほどお辛かったことでしょう。恵まれている自分に改めて感謝し、必ず元気になってやろうと心に誓いました。

 輸血は相変わらずほぼ毎日続いていましたし、苦しい検査などもたくさんありましたが、輸血さえしていれば身体は元気そのものなので、みんなと遊んだりしながら、毎日の入院生活を楽しく過ごさせてもらいました。

 そして骨髄移植は11月18日に決定しました。

再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 盲腸発覚

 何ごともなく順調に日が過ぎていったのですが、移植の20日前の10月29日の晩、急にお腹に激痛が走りました。まだ就寝前でしたので、看護師さんを呼び、お薬をいただいたのですが一向に回復の兆しがなく、痛みに耐えること7時間、とうとう我慢の限界になり、午前4時もう一度ナースコールを押しました。
 看護師さんがすぐに来てくださり、私のお腹を手で少し抑えて、すぐに放すようなことをしはじめました。放したときに激痛が走ったことを言うと、看護師さんの顔が急に強張りました。すぐにお医者さまを呼びにいき、同じような検査をして、「これは盲腸かもしれない」と告げられました。10月30日の朝ことでした。

 しばらくすると、そこには多くの内科の医師が集まり、深刻な顔で話し合っていました。11月9日から移植に向けての前治療をすることが決まっていたからです。前治療とは、移植の際に拒絶反応が起きないように、放射線と抗ガン剤で、身体にある白血球を全て消滅させてしまうものです。白血球がなくなると、まったく免疫力がなくなるので、些細な傷でも治癒できる能力がなく、どんどんそれが悪化して確実に死に至ってしまうのだそうです。

 数分後、内科の医師たちの話し合いの結果、「前治療の10日前で手術は多分出来ないだろうから何とか薬で散らしてもたせよう」と言われました。
ところがその数分後に、外科の医師側から通達があり緊急手術を言われました。それは薬でちらしていても無菌室で、もし再発したら間違いなく死に至ってしまう事・そして今なら手術をしても何とか10日で完全に傷がふさがるだろう、という理由からでした。

 その日の朝、即座に緊急手術が行われる事になりました。本来盲腸は部分麻酔をするのですが、部分麻酔は注射になるので、出来るだけ身体に傷をつけないようにということで盲腸では異例の全身麻酔で、輸血しながらの手術になったのです。

 無事に手術は成功、順調に傷口は回復していきました。あと1日でも遅かったら手術は出来なかったと後で聞かされましたので、ここでも私は恵まれていたのです。

再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 骨髄移植

 平成11年11月6日、移植へ向けての前治療を3日後に控え、まだ手術の傷の痛む中、移植についての詳しい説明を聞きました。

1、 骨髄移植の前に、菌から守る抗体要素のあるである白血球をすべて消滅させなければならない。そうしなければ、身体の白血球が拒絶反応をおこし、生着できない。

2、 白血球の消滅させる方法(前治療)は、まず放射線を4日間浴びて、抗ガン剤を4日間投与する。副作用として、内蔵機能の低下、激しい嘔吐、抜毛、皮膚の変色などがおこり、この時点で1割程度の方が身体が耐えられなくて命をおとされている。

3、 移植後、もし0になった白血球の値があがらなければ、生着不全で移植は失敗となり手のほどこしようがなくなってしまう。

4、 白血球があがるまでは、細菌の感染が最も恐ろしく、もし感染してしまうと治癒しないので、どれほどつらくても薬だけは飲まなくてはいけない。

5、 少しの傷でも、大きな感染症を引き起こすので絶対に身体に怪我などをしてはいけない。

6、 そして移植後、最も恐ろしいのが拒絶反応といわれるものである。拒絶反応とは、これは身体にはいったドナー(相手側)の骨髄液が、自分の身体を攻撃するというもので、肝機能・腎機能の低下・皮膚の老化などの症状が現れ、これが原因で命を亡くされる方も多い。

7、 移植後は拒絶反応の予防の為、免疫抑制剤とステロイドといわれる薬は飲み続けないといけないこと。副作用としては、剛毛、過食、赤み顔、顔のハレ等がある。
などなど

 みんなから、「お医者さまの説明は最悪の場合を想定して言うから覚悟して聞いたほうがいいよ。」といわれていたので、覚悟は決めていたつもりだったのですが、やはり移植の日が迫ってくると恐ろしく感じるようになりました。

 ただ1つ嬉しかったことは、放射線治療は全身ではなく部分的に当てるので、子供をつくる組織は無事な可能性は十分にあるということです。これは私が若いためというお医者さまのありがたい配慮でした。

 11月9日、いよいよ前治療が始まりました。まず放射線を4日間です。
 私の場合、不安な気持ちもあったせいか、初日の放射線を浴びただけで激しい吐き気が襲い、地獄の始まりでした。2日目からは歩くこともできなくなってしまい、放射線室へは車椅子で連れて行ってもらいました。あとの3日はもう最悪な状態でした。

 そして放射線治療が終わり、無菌室へ入っての抗ガン剤治療4日間です。あまりの苦しみの中、それでも毎日抗ガン剤を注入されるのです。そのうち、首を動かすことや、目を開ける気力すらもなくなり、苦しみだけと闘いつづけました。眠ってしまえたら少しは楽になれるのでしょうが、あまりの気分の悪さに眠ることすらも許されません。
 また何度嘔吐を繰り返しても、吐き気はまったくおさまらないのです。もう、生きた心地はせず、1分、1秒がとても長く感じました。

 ようやく前治療が終わり、17日に白血球の値を計ると完全に0になっていました。移植へ向けての準備がすべて整ったのです。骨髄移植とはドナーから採取した骨髄液を点滴で入れていくのです。

 18日の昼頃、午前中の手術で採取された弟の大量の骨髄液が私のもとに届きました。いよいよ移植の開始です。

 弟の骨髄液がポタポタ私の体の中に入ってくるのを見ていると、その時だけは苦しみを忘れてとても温かい気分になりました。弟は私のために今も入院して痛みや苦しみと闘ってくれているのです。もう感謝の気持ちでいっぱいで、弟のためにも必ず元気な姿をみせてやろうと改めて心に誓いました。

 移植自体は点滴なので痛みはありませんでしたが、この移植が無事に成功するか否かは、白血球の値が上がるかどうかによります。
 そして白血球の値が上がると苦しみは少しずつ和らいでくるそうです。ただ、上がるまでには10日〜20日くらいかかるそうで、それまではこの地獄のような苦しみと戦い続けなくてはならないのです。もし上がらなければ、この苦しみが解放されることなく終わってしまうという恐怖もつきまといました。

 移植後、なにより私を苦しませてくれたのは「お薬」です。嘔吐がひどく、身体を動かすこともままならない状態でも、感染防止のためお薬だけは飲まなくてはならないのです。

 基本的に無菌室には自分一人ですので錠剤の開封から自分でしなければなりません。まず消毒液を出してその中に数十秒つけておいて、それから開封です。薬の量も半端でないので、吐き気と戦いながらのこの作業は嫌で嫌でたまりませんでした。
 開封もそんな状態なので、飲みこむとなれば大変です。口に含むだけでたちまち大きな吐き気がもよおされますし、それを我慢して飲み込んでも、30分間は戻さないように頑張らなくてはなりません。もし吐いてしまうと、また開封からやりなおしだからです。
 最初は我慢できずよく戻してばかりでしたが、その内に飲む前に吐くと30分くらい我慢できることがわかり、わざわざ吐いてからお薬を飲んだりしていました。そんな私の姿をガラス越しに涙を流していた母親の姿が今でもくっきり私の目の中に焼きついています。

 2週間経った頃から髪の毛が抜けてきました。5日後には、眉毛・足の毛などありとあらゆる髪がすべて抜け落ちていました。その頃から今まで0だった白血球が、少しずつ増え始めました。骨髄移植の成功です。このときばかりは家族だけでなく、お医者さまや看護師さんもみんな喜んでくれました。私も、無事に弟の骨髄が生着したのだとわかり、今までにない嬉しさを感じ、不安や恐怖もなくなり、涙を流して喜びました。

 数日後、ドナーになってくれた弟もお見舞いに来てくれて、元気な顔を見せてくれました。移植後、ずっと気がかりだったのは弟のことだったので、その弟の元気な姿をやっと見ることができて、安心しました。そして改めて心からの感謝の気持ち伝えました。

 白血球が上がり始めた頃から、徐々に苦しみはなくなり、体が楽になってきたのは移植から1ヵ月後でした。その頃、白血球はだいぶ回復していました。移植は無事に終わりましたが、これから拒絶反応や合併症、薬の副作用と闘っていかなければならないのです。


再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 退院

 幸いにも拒絶反応や合併症はあまりなく、検査の結果も良好で移植後約3ヵ月の平成11年2月10日、無事に退院する事ができました。ちょうどその頃から髪の毛も生え始めたのです。
 しかし退院後ステロイドや免疫抑制剤という薬の副作用で顔が腫れ、真っ赤になり体中にブツブツがいっぱい出来てきたのです。顔の皮膚はぼろぼろになり、必死でクリームをつけてもつけても、どんどんひどくなるのです。あげくのはてには、まるでミイラのような顔になってしまいました。

 まったく移植前の元気な面影はなく、以前の綺麗な肌の自分の写真を見ると、悲しくて、悲しくて、気がくるってしまいそうになりました。もちろん、もう誰にも会いたくなくなり、部屋に閉じこもりがちになりました。友達からの退院祝いの電話にも一切でませんでした。
両親はそんな私に気を使ってくれて、前から欲しがっていたパソコンを買ってくれたのです。

 母は「おまえが元気になってくれただけで幸せなんだよ。もう何もいらないよ。」と涙ながらに言ってくれました。父もどんな思いで毎日を過ごしていたか、病室の前にはこれたが、いつも中に入ることはできなかったことなど、事細かに話してくれました。

 ある日、何気なくふと両親の本棚をみると、私の病気についてのいろいろな本が綺麗に並んでいました。それを見た瞬間、どれほど私のことを心配してくれていたのかがしみじみと伝わってきました。入院中、私がどんなにきつくあたっても何も言わず優しく受け止めてくれたこと、いつも笑顔でお見舞いにきてくれていたことなど、いろいろな出来事が走馬灯のように描き出されてきて、これらの行動は私の苦しみを精一杯理解しようとしてくれていた親の愛情だったのだということがわかり、自然と涙が溢れて止まりませんでした。
 本当の意味で苦しかったのは両親だったのだということに初めて気がついたのです。

 今まで両親には金銭的にも精神的にも迷惑をかけつづけてきました。私は正直、親にこれ以上迷惑や心配をかけたくありませんでした。だからといって私はこの顔で人前に出る勇気はありませんでした。
 親孝行したくてもどうすることもできない葛藤に悩み苦しみ、そんなことを考えていると自分がいない方が周りのみんなは楽なんじゃないかという思いが頭をよぎることもありました。しかし退院が決まったときの両親や家族の喜ぶ顔を思い出すと、これ以上の親不孝はないと思い留まりました。
 それで今の自分にできる事、両親のために何かできる事は無いかと考えて、寺坊のホームページを作ってみたのです。最初は無茶苦茶なページでしたが、両親に見せるとすごく喜んでくれました。きっと両親はホームページに喜んだのではなく、頑張っている私の姿を見たからだと思います。

 病気になった事は辛かったですが、この闘病生活は奇跡といっても過言ではないほど恵まれていました。それはすぐに完全一致のドナーが見つかった事 ・ 1日でも遅かったら死に至っていたかもしれない盲腸が移植前急に痛み出し発覚した事 ・なにより環境に恵まれていました。病院の先生方や看護師さんや入院していた友達、愛する家族。そして何もかも大成功で少しずつですが回復に向かっている事などからです。

 今でも病院通いは続いていますが、今はもう病気前の私とほとんど変わらないほど、回復し、毎日を元気に過ごさせていただいております。

再生不良性貧血で骨髄移植した闘病記 最後に・・・

 この入院生活は、きっと御仏の慈悲の心によって、私に与えられた試練だったのかもしれません。たしかに闘病生活は苦しかったですが、私はこの闘病生活を通じて、学んだことはそれ以上に大きいものがありました。

 み仏は『この世に1人きりの人間なんて決していないのだよ』『この世に存在する意味や価値のない人間は1人もいないのだよ』という生きていくうえで最も大切なことを教えて下さいました。

 この病気を乗り越えて、私はみ仏から教わった大切なことを伝えていくことを心に誓いました。


 常光円満寺には、ご家族やお子さまを亡くされた方のお参りがたいへん多いのですが、愛する家族を失う苦しみに比べると、私の苦しみなどほんの些細なものだったのかもしれません。皆様方の苦しみや哀しみは私には理解することはできないかもしれませんが、その中で精一杯受け止めてあげようと努力しております。それがみ仏の導いてくれた道であり、み仏や支えてくださる方々に対する何よりもの恩返しになると信じているからです。

 そしてあなたを必要としている方も必ずおられます。あなたにはきっと愛する家族があることでしょう。たとえ、どれほど口の悪い家族であっても、その心の奥には誰よりもあなたを愛し、あなたの存在を尊く感じてくださるのが家族です。もちろん大切な友人や支えてくださる方々もございます。あなたと同じような思いで苦しんでいる方は、あなたの一言でどれほど救われることでしょう。

 人生における大きな苦しみ・哀しみは、決してお金にかえることの出来ない最も大切なものを感じる試練です。その苦しみ・哀しみを乗り越えたとき、生かされるすばらしさを感じ、この上ない優しさと温もりの心をつかむことができるでしょう。

 私事ばかりを申させていただきましたが、最後までお読み下さり、本当にありがとうございました。


骨髄移植を経て


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